
朝靄が立ち込める森の中、テントから這い出すと冷たい空気が頬を撫でた。家族でのキャンプも今回で三度目。初めて訪れた時は不安と期待が入り混じっていたが、今では焚き火の準備から食材の下ごしらえまで、家族全員が自然と役割を担うようになっていた。
キャンプにおける料理は、日常の台所仕事とはまったく異なる体験だ。限られた道具と食材、そして自然という大きな舞台の中で、家族それぞれの創意工夫が試される。妻は前日から準備していた野菜を取り出し、娘は薪を集め、息子は水を汲みに行く。私は焚き火台の前で火加減を調整しながら、この静かな連携プレーに心地よさを感じていた。
キャンプでの料理の醍醐味は、なんといっても焚き火を使った調理にある。ガスコンロのような便利さはないが、ゆらゆらと揺れる炎を見つめながら、じっくりと食材に火を通していく時間は、せわしない日常を忘れさせてくれる。ダッチオーブンに鶏肉と野菜を放り込み、蓋をして炭火の上に置く。あとは自然の力に任せるだけだ。この「待つ」という行為が、現代人には贅沢な時間となる。
娘が集めてきた小枝を火にくべると、パチパチという心地よい音が響いた。「お父さん、この枝は火がつきやすいよ」と得意げに報告する娘の顔には、自然から学んだ知恵への自信が溢れていた。キャンプという環境は、子どもたちに教科書では学べない生きた知識を授けてくれる。どの木が燃えやすいか、風向きによって火の勢いがどう変わるか、煙の匂いで料理の進み具合を判断する感覚。これらはすべて、家族でキャンプを重ねる中で自然と身についていったものだ。
息子が汲んできた清水でお米を研ぐ。飯盒炊爨は最初こそ失敗の連続だったが、今では火加減のコツもつかんできた。「始めちょろちょろ中ぱっぱ」という昔ながらの言葉を口ずさみながら、薪の量を調整する。都会の生活では電気釜のボタン一つで済んでしまうことも、ここでは家族総出の一大イベントになる。そしてその過程こそが、かけがえのない思い出となっていく。
ダッチオーブンからは食欲をそそる香りが漂い始めた。蓋を開けると、鶏肉から出た旨味が野菜に染み込み、黄金色のスープが湯気を立てている。「わあ、おいしそう!」という歓声が上がる。この瞬間のために、準備の手間も、煙で目が痛くなることも、すべて報われる。キャンプでの料理は、完成した料理そのものだけでなく、そこに至るまでの全プロセスが楽しみなのだ。
妻が持参したホットサンドメーカーで朝食用のサンドイッチを焼く。バターの香ばしい匂いが森の空気に溶け込んでいく。「明日の朝はこれね」と言いながら、チーズとハムを挟む妻の横顔は、いつもより生き生きとして見えた。日常の家事から解放され、遊びの延長のような料理を楽しんでいる証拠だろう。キャンプという非日常空間は、家族それぞれに新しい表情をもたらしてくれる。
食事の準備が整い、家族四人で焚き火を囲んで座る。星空の下、炎の灯りだけを頼りにいただく食事は、どんな高級レストランにも勝る特別なものだ。「おいしいね」という言葉が自然とこぼれる。同じ食材でも、この環境で、家族みんなで作り上げたからこそ、格別な味わいになるのだろう。
食後のマシュマロ焼きは子どもたちの楽しみだ。枝の先にマシュマロを刺し、炎にかざして表面をきつね色に焼く。焦がしすぎて真っ黒になったり、火が強すぎて落としてしまったり、失敗も含めてすべてが笑いのネタになる。こうした些細な出来事の積み重ねが、家族の絆を深めていく。
キャンプでの料理を通じて気づいたことがある。それは、料理とは単に空腹を満たす行為ではなく、家族をつなぐコミュニケーションの手段だということだ。都会の生活では、それぞれが忙しく、食事も個別に済ませることが多い。しかしキャンプでは、食材を選ぶところから片付けまで、すべてが共同作業となる。この共同作業の中で、自然と会話が生まれ、笑顔が増え、互いを思いやる気持ちが育まれていく。
焚き火の炎が小さくなり、熾火だけが赤く輝いている。明日はどんな料理を作ろうかと家族で話し合う。カレーがいい、焼きそばもいいね、ピザも作れるかもしれない。アイデアが次々と飛び出す。料理という共通の目標があることで、家族の会話は尽きることがない。
テントに戻る前、もう一度夜空を見上げた。満天の星々が輝いている。この美しい自然の中で、家族と共に料理を作り、食べ、語り合う。これ以上の贅沢があるだろうか。キャンプでの料理は、ただ食事を作るという行為を超えて、家族の絆を深め、生きる喜びを実感させてくれる魔法のような時間なのだ。次のキャンプが今から待ち遠しい。


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