
冷蔵庫を開けたら、賞味期限ギリギリの豆腐があった。
静かな夜に二人で食事をするとき、私はなぜかいつもより手間をかけてしまう。別に記念日でもなんでもない、ただの水曜日の夜だったりするんだけど。テーブルに並べる皿の数が増えて、普段は使わない小鉢を引っ張り出してきたりして、自分でも「なんでこんなことしてるんだろう」って思いながら、結局やめられない。
その日は豆腐を使った湯豆腐にしようと決めた。土鍋を出して、昆布を水に浸して、ネギを斜め切りにする。包丁がまな板に当たる音だけが、キッチンに響く。彼はリビングでスマホを見ているのか、たまに笑い声が聞こえてくる。こういう時間が、実は一番落ち着くんだよね。料理している私と、隣の部屋でリラックスしている彼。適度な距離感というか。
前に一度、張り切りすぎて失敗したことがある。確か去年の秋だったと思うけど、「今日は本格的なフレンチ作る!」って宣言して、レシピサイトを3つくらい見比べながら鴨肉のソテーに挑戦したんだ。結果、キッチンは油まみれ、鴨肉は焼きすぎて固くなり、ソースは謎の味になった。彼は「美味しいよ」って言ってくれたけど、明らかに顔が引きつってた。あれ以来、私は「凝った料理」より「ちゃんとした家庭料理」を目指すようになった。
湯豆腐の準備をしながら、ふと小学生の頃の家庭科の授業を思い出した。全然関係ないんだけど。あの頃、グループで味噌汁を作る実習があって、私は出汁を取る係だったんだよね。でも火加減を間違えて、昆布がドロドロに溶けてしまって、先生に「これは…出汁というより昆布スープだね」って苦笑いされた記憶がある。今ならちゃんとできるけど、あの時の恥ずかしさは今でも鮮明に覚えてる。料理の記憶って、なぜか失敗談の方が印象に残るんだよね。
土鍋が温まってきた頃、彼がキッチンに顔を出した。「いい匂いしてきたね」って言いながら、冷蔵庫からビールを取り出す。夜の8時過ぎ、窓の外は真っ暗で、換気扇の音だけが静かに回っている。こういう何気ない瞬間が、実は一番贅沢な時間なのかもしれない。外で食べる料理も美味しいけれど、家で二人で食べる夕食には、どこか特別な親密さがある。
テーブルに湯豆腐を運んで、小鉢にポン酢を注いで、薬味を並べる。彼は箸を手に取りながら、「今日も一日疲れたね」ってぽつりと言った。私も「ほんとにね」って返して、豆腐を一口食べる。熱々の豆腐が口の中でほろほろと崩れて、昆布の香りが鼻に抜けていく。
静かな夜の食事は、会話が少なくても気まずくならない。むしろ、無言の時間が心地いい。たまに「これ美味しい」とか「明日も寒いらしいよ」とか、どうでもいい話をして、また黙って食べる。テレビもつけないし、音楽もかけない。土鍋がぐつぐつ言う音と、箸が器に当たる音だけ。
前に友達に「カップルで無言の食事って気まずくない?」って聞かれたことがあるけど、全然そんなことないんだよね。むしろ、無理に会話を作らなくていい関係性って、すごく楽だと思う。もちろん、話したいときは話すし、聞いてほしいことがあれば聞いてもらう。でも、黙って一緒にご飯を食べられるって、それだけで十分な気がする。
豆腐が残り少なくなってきた頃、彼が「次は何食べたい?」って聞いてきた。私は「うーん、鍋が続いてもいいけど」って答えながら、次は何を作ろうかぼんやり考える。明日はもう少し軽いものがいいかな。サラダとパスタとか…。
結局、料理って相手のことを考える時間なのかもしれない。何が好きで、何を食べたら喜ぶか。疲れてそうだから消化のいいものにしようとか、最近野菜不足だから緑黄色野菜を多めにしようとか。そういう小さな配慮の積み重ねが、二人の食卓を作っているんだと思う。
土鍋の中の最後の豆腐を彼が取って、「ごちそうさま」って言った。私も箸を置いて、お茶を一口飲む。
明日もまた、何か作るんだろうな。

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